こんな話・あんな話

ヒーロー

昔から映画好きであった。日曜日の朝一は、たとえ人気映画でも、カップルとカップルの間には隙間の席があり、あつかましいオジサンは必ず座ることができた。
しかし全席予約制が増えたため、隙間席が無くなり足が遠のいていた。
最近、神戸にもシネコンが増え、その多くがネットで予約できるようになったので、日曜日の朝一に足しげく通うようになった。
好みは単純なアクションものである。007、ダイ・ハード、ミッションインポッシブルはすべて観た。最近の話題作もほとんど観ている。
多くの映画にはヒーローが登場する。
ヒロインに危機が訪れると、クラーク・ケントはスーパーマンになった。
古くは、杉作を救うため、嵐勘十郎は鞍間天狗となって白馬にまたがり駆けつけた。
タイタニック号の悲劇は実話である。7回におよぶ警告を無視して氷山にぶつかった。
ヒーローにはなれなかったが、デカプリオはスターになった。
映画が面白いのは、危機管理(リスクマネジメント)ができず、危機が発生し、その危機を救うヒーローが現れるからである。
観客はハラハラドキドキする。はやく何とかならないかと、やきもきする。手に汗を握る。
そこにヒーローが現れ、一件落着となる。
水戸黄門は、長年にわたり毎日夜8時にヒーローとなっていた。
危機管理の要諦は、リスクアセスメントとダメッジコントロールである。
リスクアセスメントとは、リスクを予知予防し未然に防ぐことである。それでもリスクは膨らみ現実のものとなる。その時、被害を最小限に抑えるのがダメッジコントロールである。
リスクアセスメントができず被害が拡大しそうになったところに、ヒーローの出番があり、面白い映画となる。ヒーローはいわば火消し役である。

映画はこれでいい。しかし、医療現場で何度も火の手があがると大事(おおごと)である。
医療での一番の危機は、患者の急変である。
「血圧低下!呼吸停止!止血困難!」。周りが慌てふためいているときに、スーパードクターがさっそうと現れ、的確な処置を施し患者を救う。
医療事故や患者とのトラブルが発生しても、院長や事務長がたちどころに問題解決をする。
職員は安堵して拍手を送る。そのようなヒーローを擁し、彼等の出番が多い病院はドラマの世界だけで十分である。
毎日、「医龍」の朝田龍太郎が活躍するような病院は大変な病院である。
病院は、娯楽、店頭、感染、輸血ミスを未然に防がねばならない。
患者が急変する前に、適切な治療をすること。
患者や家族の声(警報)には耳を傾けること。廊下の水溜りはすぐにふき取ること。
夜道をひとりで歩かないのと同じように、複雑な医療行為は二人で確認すること。
職員ひとりひとりが、決まったことを正確に淡々とこなすことが、リスクを未然に防ぐことにつながり、一番のリスクアセスメントとなる。
ヒーローの出番のない「凡事徹底」に勝るリスクマネジメントはないといえる。

有料老人ホーム エリーネス須磨 介護の家
理事長 澤田勝寛


前向きに生きる人たち

「抗癌剤のむかつきは二日酔いに比べたらよほどマシ!」
「痛いのは生きている証拠!」
「髪の毛が抜けるのが嫌で思い切って短く切ったら、それからはあまり抜けなくなった!」
後輩の女性医師の言葉である。
進行した子宮がんで、化学療法と手術を繰り返し受けた。
約1年の闘病生活を送り、ようやく復職できるまで回復した。
発病当初から色々相談にのった経験があり、元気になった報告をしたいと、まっ先に訪ねて来てくれた。 メールをもらった時は、長期にわたる癌との闘病で、やつれているであろうと思い、どのように接したらいいかと、少し悩んでいた。
しかし、目を見張るようなショッキングピンクのコートを羽織り、若干ふくよかになった顔で、颯爽とやってきた彼女をみて、その思いは一気に吹き飛んだ。
食欲は極めて狂盛、仕事もせずに「食っちゃ寝、食っちゃ寝」の生活で、5キロ太ったという。もともと、元気者。仕事大好き、向学心も旺盛で、アメリカに留学経験もある。
美人で明るく親切で、仕事ができる。患者からも看護師からも絶大な人気があった。
「○○から元気をもらった」という言葉はあまり好きでなく、安易な使い方に違和感を持っていた。
実際そんな人にお目にかかったこともなかった。
土曜日の午後、病院近くにある小さなイタリアンレストランで、ランチを食べながら話がはずんだ。
世の中には、癌になっても、こんなに元気で明るい人がいるのだ、ということを知った。
彼女との久しぶりの会話で、健康な私が元気づけられ、「これが人から元気をもらうということか」と初めて実感した。
先日受けたPET検査で、転移はなかったようで、4月からの仕事への復帰を、心待ちにしている様子がありありとうかがえた。
「病は気から」という言葉がある。
彼女をみていると、「まさしくその通り!」いう感じがした。

先日、中村天風の講演集を読んだ。
ご存知の方も多いと思うが天風は昭和の哲人といわれた人である。
政財界で教えを請うた人も多い。作家大佛次郎も心酔し、天風をモデルに「鞍馬天狗」を書いたと言われている。
没後も天風会が啓発活動を続けている。
天風哲学の基本は心身統一法である。
生命とは、見える肉体と見えざる心が結合し、躍動していることがある。
活動のすべての源は心にある。
肉体ばかりに目を奪われ、体を鍛えようとするが、体より心を鍛え丈夫にすることが大切だと説いている。
人にとって重要な6つの力として、体力・胆力・判断力・断行力・精力・能力をあげ、その力もすべて心が源になっている。
感情とは、目に見えない心の摩擦が起こって生じる現象である。
気弱、勇気のなさで、泣いたり恐れたり妬みがわいてくる。
健全な精神が健全な生命を作る。
体を丈夫にするためには、とにかく心を丈夫にすることだと、繰り返し力説している。

心を丈夫にするための方法は次のとおり
・眠りにつく前には、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことを考える。
・消極的な言葉を使わない。
・不平不満は言わない。
・心の積極的な人と接する。
・何事にもベストを尽くす。
・内省する。
・人の言葉に左右されない。
・取り越し苦労はしない。
・本心良心に背く行動はしない。
 以上が、私が考える天風哲学のミニミニダイジェストである。

このような、ある意味の精神論を論じても信じない人も多い。
松下幸之助、本田宗一郎、稲盛和夫、小倉昌男、飯田亮、永守重心、鍵山秀三郎といった、いわゆる創業者、名経営者と言われる人たちの多くが、天風と同じようなかとを述べているのは興味深い。
京セラを一代で築き上げ、日本航空を再建した稲盛和夫さんは、多くの本を書いている。
そこで常に説いているのは、正しい考え方とは、前向きで建設的、明るい思いを持ち、肯定的で善意に満ちており、真面目・正直・謙虚で努力家、利己的ではなく、足るを知り、感謝の念を忘れないということである。
ほとんどが一代で大企業を築き上げた方々である。
艱難辛苦は察して余りある。幾度となく経営不振があり、倒産の危険を感じていたという。
極度の不眠症に陥った人もいる。
それでも、強い心を持ち続け、今の地位を築き上げたわけで、そのような人の言葉には、実績に裏打ちされた重みがある。

フローという言葉がある。
フローに浸されると偶然が次々と起こり、出来事が収まるべきところに収まり、障害が消え去る(「パワー・オブ・フロー」チャーリーン・ベリッツ)。
いわゆる、いい流れをつかんだ状態のことで、急いでいる時にずっと青信号が続いたとか、困った時に偶然出会った人が助けてくれたとか、本当にびっくりするような幸運に巡りあった経験は誰もが待っていると思う。
このフローをよく実感する人を、フローマスターという。
フローマスターは、開放的、学び好き、正直、誠実、親指で感謝を忘れず、一緒にいると心豊かになり会話に熱中するような人といわれている。
先に上げた名経営者に、直接お目にかかったことはないが、おそらくこのフローマスターであったのであろう。
何事にも積極的な精神で、誠心誠意取り組んできたことは想像に難くない。

冒頭に紹介した女性医師は、大病を患ったことは不幸ではあるが、それを見事に乗り越え、溢れんばかりのパワーを放散するまでに回復した。
天風哲学の心身統一を果たし、そして、フローマスターを体現している人物といえる。
手帳の裏表紙に貼り付けてある、天風の誓詞「怒らず、恐れず、悲しまず」を眺めながら、いまだに残るそのオーラを感じている。

有料老人ホーム エリーネス須磨 介護の家
理事長 澤田勝寛


結婚します

休日の朝、携帯にメールが届いた。
「10月11日に結婚式をします。先生はお忙しいと思うので、早めに連絡しておきます。空けておいて下さいね。日が近づいてきたら、改めて案内状を送りますね」という文面に、絵文字が付いていた。
私は苦手の携帯メールで
「おめでとう。了解しました。喜んで出席させてもらいます。」と返事を送った。

話は20年前にさかのぼる。私は、兵庫県の西にある、地方の公立病院に勤務していた。
当時2歳の少女が、ひとりで遊んでいた時に田んぼの用水路に転落し、浮かんでいるところを近所の人に発見され、瀕死の状態で病院に運ばれてきた。
心肺蘇生が奏功し、一命は取り留めたが、呼吸は微弱で昏睡状態が続いた。地方にはそのような患者を受け入れてくれる病院はなく、院内でチームを組んで治療に取り組んだ。
町長の英断で小児用人工呼吸器も購入された。栄養をつけるために、お腹を切開し小腸に管を入れ、経管栄養を始めた。 元看護婦であったお母さんは、終始ベッドサイドに付き添われていた。
事故から一ヶ月、多くの人の祈りと努力が通じたのか、まさしく奇跡的に少女は意識を回復した。人工呼吸器からも離脱、食事も出来るようになり、歌も歌えるようになった。お腹の小さな傷以外、何ら障害を残さず、元気になった。
私一人の力ではないが、ご両親に深く感謝された。
地方紙に大きく取り上げられ、民放の朝の番組でも放映された。

その後、私は病院を変わったが、少女との文通は続いていた。
幼稚園、小学校、中学校と、暑中見舞い・年賀状は欠かさず届いた。小学校入学時の幼い字は年を追う毎に立派な楷書となり、悪筆の私はワープロで対抗した。
便りには成長を物語る折々の写真も入っていた。彼女を一番可愛がってくれたおじいさんが亡くなられたという悲しい知らせも届いた。

平成7年1月、阪神淡路大震災発生から8日目に、ご両親が大渋滞の中を、何時間もかけて、非常食と水とケーキをもって駆けつけてくださった。嬉しさと懐かしさで涙がこみ上げた。
地震のあと、その復興の記念行事として毎年年末に神戸でルミナリエが開催されるようになった。高校生になった彼女から、ルミナリエ見物に友人と神戸にくるとの手紙がきた。そこで、ルミナリエの夜に会うことにした。
13年ぶりの再開である。友達と一緒の中でも、彼女はすぐに分った。2才の時のクリクリした愛くるしい目はそのままであった。幼女は、日焼け顔にニキビがポツポツみえる、はにかみやの少女になっていた。

洒落たレストランと思わないでもなかったが、食欲旺盛な女子高生と割りきり、病院近くの焼鳥屋で夕食を食べた。久しぶりの再会は、なんとなく照れくさく会話は途切れがちになったが、女子高生の食欲と姦しさに救われた。
陸上と勉学との両立の厳しさを何度も手紙に書いてきていたが、部活に打ち込み、長距離選手として頑張り、県大会にも出るほどの成績を残していた。
彼女の友達が気を利かせて撮ってくれたツーショット写真を、今でも大切にしている。

その後、彼女は高校三年生になり、進学という転機を迎えた。
普通の大学に進むか、看護師になるかを悩んだようだ。彼女のご両親が、幼児期の事故のこと、そして多くの人達のおかげで救われたことを、繰り返し話されていたためか、彼女は看護師の道を選択した。彼女から届く手紙にも、自分が受けた恩に報いたいということも書かれてあった。看護学校に入学し、神戸で一人住まいを始めた。両親と離れて、一人暮らしをするようになってはじめて実家の有難さが分ったようである。
3年間で卒業し、無事国家試験も合格し、看護師として働き始めた。仕事を始めてしばらくは、リアリティーショックに悩んだようである。
人が死ぬこと、自分の技量の未熟さ、複雑な人間関係など、泣き言交じりの手紙がよく来るようになった。その都度、励ましの手紙を返した。

2年ほど経ち、ある日好きな人が出来たと、手紙ではなくメールが来た。
あれから20年あまり、少女が年頃の女性になったことを改めて認識した。
二人を食事に招待することにした。
今度は、焼鳥屋ではなく、洒落たイタリアンレストランである。
どんな「男」かと、想像していた。茶髪でもなく、ピアスも付けず、破れたジーンズもはいていなかった。整った髪型でスーツを着て、背筋を伸ばし、目を見て挨拶が出来る青年であった。市役所に勤めているという。私の口頭試問のような、政治・経済・医療に関わる話にも応じることができた。縦割り行政、税金の無駄遣い、公僕としての意識の低さなど、行政の問題点もしっかり指摘していた。また、若手のリーダーとしての悩みも抱えていた。
「合格」である。好青年と判断した。この時すでに、結婚の約束ができていたようである。そして結婚式への招待状が届いた。彼女と文通が始まった頃から「結婚式への出席」を意識はしていた。長い付き合いであり、遠くで暮らす娘のようなものである。
自分が救った幼女が少女になり、そして看護師になり、今ここで結婚式を迎える美しい女性にまで成長した。感慨はひとしおである。
ほぼ四半世紀にわたり、ひとりの「患者」と関わってきたわけでこれほどの喜びはない。
医者冥利につきる。
医療バッシングが強まり、モチベーションが下がることが多い中で、医師として私の気持ちを下支えしてくれているのは、このような患者とのいい関係と思っている。

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理事長 澤田勝寛


最後の晩餐

「ホント美味しい、とろけるようよ。柔らかいお肉ね。嬉しいわ。最後の晩餐ね」
と言って、彼女は小さく切ったヒレ肉を一切れずつ、ゆっくりと口に運んだ。ほんの数切れであったが、美味しそうに食べている。
日曜の昼さがり、書類や雑誌で散らかった院長室で、二人でステーキを味わった。
彼女は、明治生まれの94歳。当院関連の有料老人ホームへ、平成7年の阪神淡路大震災後に入居してきた。 東京で育ち、関東大震災も経験したという。
厳格な陸軍将校の父に反抗し、若くして家を飛び出し、津田塾でフランス語の翻訳家として、80歳まで仕事をしていた。
天涯孤独を自称しており、確かに訪れる人はいなかった。
「スパイのことをフランス語では、エスピオナージっていうのよ。私なんか、戦争中は特高につけられたこともあるのだから」と、話していた。
フランス留学の経験もある。戦時中なら、敵国かぶれの怪しい女性と思われても仕方ない。イブニングドレスを着て、パーティーにもよく出ていたと言う。
ついこの間まで、薄化粧をし、口紅をひき、ネックレスとイヤリングで飾り、つばの広い洒落た帽子をかぶって、さっそうと出歩いていた。
背筋が伸びて細身ですらっとし、ドレスアップした彼女は、 どう見ても90歳を過ぎた老女には見えない。
ひょっとして魔女ではないかという、楽しい噂も流れていた。私も、彼女がホウキにまたがって空を飛ぶ姿を想像したことがある。
「年寄りが野菜ばかり食べていたら、よけい年寄りくさくなっちゃうでしょう。私はね、ステーキとお寿司が好きなの」
「今まで私は病気らしい病気なんてしたことないのよ」
「病気になったときはそのときよ。先生、何もしないで楽にさせてね」
ときおり、健康診断に訪れた時の彼女の口癖であった。
半年前から、食事がすすまなくなり、徐々にやせてきた。老人ホームの友人や職員が、病院の受診をすすめても、「いいの、いいの」と言って、拒んでいた。
しかし、やはり気になったのか、久しぶりに健康診断を受けた。その結果、進化した胃がんが見つかった。すでに狭窄症状も出現していた。彼女に、病気のことをつつみ隠さず説明した。彼女は、淡々とした態度で、笑みを浮かべながら、
「そうだろうと思っていたのよ。よく分かりました。後どれくらい生きられるのかしら」
「何年も、というわけにはいきませんね」
「薬で治らないかしら」
「あまり効く薬はありません」
「最後は痛むかしら」
「多少の痛みは出るでしょうが、その時は麻酔を使いましょう」
「ここまで生きたのだから、もう十分。先生、何もしないで最後は楽に死なせてね」
「わかりました」
始終にこやかに、彼女はリビングウイルを表明した。
とはいっても、内心は穏やかならぬものがあったようだ。病状が進行するにつれ、些細なことでもホームの職員に厳しい叱責をするようになった。
今までの彼女からは考えられないことである。
しばらくすると、副作用の少ない抗がん剤治療を希望してきた。
できるだけ希望に沿うように対応したが、徐々に病状は進行した。
お腹が張り痛がっているとの連絡をうけた。久しぶりに、彼女の部屋を訪れると、待っていたかのように、
「先生、ひどいわね。どうして来てくれなかったのよ」
といつになく、険しい表情で責められた。
「よくがんばりましたね。そんなお腹では苦しいでしょう。病院に入院して、腹水だけでも抜きましょう」と言うと、彼女はあっさりと同意し、入院した。
緊満したお腹に針をさすと、淡血性の腹水が流れ出した。
大量の腹水が抜け、お腹はペシャンコになった。平らになったお腹には、多数の腫瘤が触れ、癌がかなり進行していることが分かった。
病院嫌いの彼女に、退院を勧めたところ、
「ご迷惑でなければ、このまま最期まで入院させておいてちょうだい」と懇願された。
癌の終末を迎える場所として、家とくらべ色々と制約があるが、安心が得られるということで、病院を選択したのであろう。
粥を少量食べるのみで、目に見えて衰弱が進んだ。
病院には、スタミナドリンクや飴やラムネ菓子が置いてあり、私が部屋を訪れるたびに、
「どうぞ召し上がれ」と言って、すすめてくれた。
ある日、
「先生、最期に美味しいステーキが食べたいわね」と冗談半分で言われた。
「家で焼いて持ってきましょうか」とたずねると、
「冷えたステーキなんてだめよ。ステーキは焼きたてでなくっちゃ、美味しくないもの」
「そうですね、なかなか難しいですね」と言いつつも、ある考えが浮かんでいた。
その夜、家で相談、電磁調理器を持っていって焼いてはどうかということになった。
商店街の肉屋で、上等のヒレ肉を買い、日曜日を待った。
病院のどこで焼こうかと迷った。病院では匂いが病棟に広がるので、まずいと判断し、私の部屋で焼くことにした。 彼女に予告はしていなかった。
日曜の昼間に病院に行き、散らかった机の上を片付け、電磁調理器をセットして病棟に電話、院長室に連れてきてもらうように頼んだ。
しばらくして、車椅子に乗って彼女がやってきた。
パジャマの上に花柄の上着を羽織り、やつれを隠すように、ひさしの付いたニットの帽子をやや深めにかぶっていた。
ここにいたっても、女性としてのはじらいを持ち、身だしなみに気を遣っている。さし向かいで、焼きたての小さなヒレ肉にスパイスをかけて一緒に食べた。
これが、彼女にとっては「最期の晩餐」であった。
「先生、人生なんて無で虚ね。何にもなくなっちゃう。虚しいものね。
でも、最期にこんなに美味しいお肉を食べることができて、本当に嬉しい」と言って、両手で私の手を強く握りしめてきた。
肉の煙が目にしみた。
そして、それから3週間後、彼女は94年の波乱に満ちた長い生涯を閉じた。

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理事長 澤田勝寛


オレは河原の枯れススキ

「うまいなあ、うまいなあ」と看護婦に手伝ってもらいながら、震える手で缶のままビールを飲み始めた。
憲法記念日の午後、気になる患者がいて病院をのぞいた。
95才。明治生まれの六尺男。ほんの数ヶ月前までは威風堂々たる人であった。
癌が見つかった時は、すでに手遅れであった。
病弱な奥さんの最後を看とり、その後は一人暮らしをしていた。縁あって当院関連の老人ホームに入居することになり、入居前健診で初めて彼に会った。
大きな目、黒くて太い眉に、黒ブチのメガネをかけ、顔は艶やかでしわは少なく、かなりの肺活量がありそうな胸には大胸筋が浮き出ていた。
歯はさすがに入れ歯のようで、話すと少しカチカチと鳴った。耳もよく聞こえ、言語明瞭で声も大きかった。健診の後、これからお世話になりますと握手を求められた彼の手は、私の手よりも一回り大きく指は太くて、久しぶりに力強い握手であった。
老人ホームに入居してからも、元気そのもので自転車に乗って、近所への買い物にも出掛けていた。
ホームの中で一、二の高齢でありながら、容姿態度ともに堂々としている彼は、他の入居者からは一目置かれた存在であったという。
些細ないがみ合いがあっても、彼が意見を述べると、それなりに説得力があるので、入居者のご意見番となっていた。
以前から胆石があったが、特に症状はなく放置していた。肝機能が少し悪くなっているので調べてほしいと、彼が懇意にしている内科医から連絡を受けた。
検査を行ったところ、胆嚢が大きく肥大し、一部は肝臓に食い込み、肝臓にも多数の陰影があった。胆嚢癌と多発性肝転移である。
手術適応はなく。他に有効な治療方法もない。残された余命はわずかである。
身寄りのあまりない彼にどのように話をすべきか迷ったが、まずは身元引受人となっている甥に連絡をとった。
病状のこと、治療方法がないこと、予後について、甥に説明した。
「先生、本当のところ、あとどれくらい生きられますか」と尋ねられた。
「夏までは無理とおもいます。花見ができればいいのでは・・・」と答えたのが師走であった。
是非は別にして、本人には一切病名は伏せることになった。定期的に私の外来を受診するたびに、衰えは隠せなくなった。
体重は減少し、顔にはしわが増え貧血のためか顔色は悪くなっている。足にむくみが出て、腹水のためにお腹は膨らんでいる。決して弱音は吐かず、病気についても一切何も尋ねようとしなかった。
ある日外来で、両手で私の手を握り締めながら、私の目を見据えて、彼は言った。
「起居が困難になってきた。もう長くはないであろう事は自分で分かる。最後はあなたにまかすので、是非お願いしたい」
家人の強い希望で病名は伏せていても、彼は自分の寿命を見定めている。
「分かりました。きちっとします」と彼の手を握り返しながら、私は答えた。
しばらくして、食事も受け付けなく、身動きもできなくなって入院してきた。延命のための積極的な治療は行わず、少しの点滴をするのみであった。
入院後、一気に衰弱が進んだ。大木が枯れるとはまさしくこのことをいうのであろう。
憲法記念日の午後、私が病棟を訪れたとき看護婦が困った顔をしていた。どうしたのかと尋ねると、
「あの患者さんが、ビールを飲みたがっていて困っているのです」
看護婦の言うことはもっともなことで、入院中に酒はご法度である。
部屋を尋ねると、彼は私の手を握り、
「先生・・、ビールが飲みたい。最後にあなたと乾杯したい・・」と頬がこけ乾いた口元から出るかすれ声で懇願された。最後の願いである。
私は病院の近くにある商店街の自動販売機で「キリン一番搾り」を買い、グラスを二つ持って階段を5階まで上がり、彼の病室へ行った。コップを渡し注ごうとすると、
「缶のままがいい。栓開けて・・」と背もたれを立てたベッドに看護師にささえられて座り、缶のまま飲みだした。
こぼしたり、むせたり、白目をむいたり。何度も少しずつゴクリゴクリと飲んでいく。看護師は心配そうに見つめながら、こぼれたビールを拭いている。
「おいしいなあ、おいしいなあ、本当にありがとう」。
大きな手で何度もしっかりと私の手を握り、涙をいっぱい浮かべた目を見開いて礼を言ってから彼は歌い始めた。
「おーれーは河原の枯れススキ、おーなじおまえも枯れススキ、どーせ、二人はこの世では・・」
思わず目頭が熱くなった。
彼の両肩を支えながら看護師も泣いていた。
部屋の日射しにホッと救われる思いであった。
しばらくすると歌声は途切れ、再び安らかな寝息をたてて眠ってしまった。
そして3日後、彼は95年の生涯を閉じた。

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理事長 澤田勝寛