こんな話・あんな話

人生で大切なもの

自己啓発本のベストセラー「とにかくやってみよう」という本を読んだ。それをもとに私の思いを書いてみた。大切なものは9つ。人生に大切なものがこれほどたくさんあると認識しておれば、そのうちの一つや二つ失ったとしても大きな悲観にくれることはない。
ジャック・ニクラウスが大スランプから立ち直ったときに「人生には大切な柱が3本ある。仕事、趣味、知己である」とあるインタビューで述べていた。
王貞治は一本足打法で世界のホームラン王になったが、人生を一本足打法で乗り越えることはできない。人生に挫折はつきものだ。それを乗り越えるためには複数の足で支える必要がある。それが次の9つである。
① 貢献
自分の行いが社会の役に立てば人は幸せになれる。青年海外協力隊を志す若者達は、その典型。立派な会社、日本という安全な場所を投げ捨て、アジアの奥地やアフリカの僻地に赴任した二人の若者を知っている。どうしてそこまでと思うほどモチベーションが高く、僻地での苦難を物ともしない強さがある。自分が世界で求められ貢献できると思うと、人はここまでたくましくなれるのかと、羨ましく思ったことがある。
医療は、仕事の目的そのものが「傷ついた体と心を癒やすこと」であり、患者さんから日々喜ばれ感謝される。大げさに考えずとも、いつも多くの人の健康に貢献していることを味わえる。
② 趣味
定年退職後、家に閉じこもり、何もせず、奥さんにまとわりつく男性を「濡れ落ち葉」という。言い得て妙である。仕事一筋、家のことは奥さん任せ、趣味はなく家事はいっさいできず定年を迎えた男は格好のネタで、内館牧子や橋田壽賀子に、いいようにあしらわれてきた。
仕事を離れてもそれに打ち込めるほどの趣味を持っているひとは少ないが、ちょっと息抜きや楽しめる趣味があるだけで生活に彩りを添えることができる。
ちなみに私は、下手の横好きを絵に描いたような性格で、何にでも「貪食(どんしょく)細胞」のように手を出してきた。木工や野菜づくり、読書、エッセイ書き、ギター弾き語りなどで余暇を費やすが、これも医師という本来の仕事があってのこと。それでも素人芸ながら結構楽しんでいる。
③ お金
「人生に必要なのは、勇気と想像力とサムマネー」(チャップリン)というくらい、ある程度のお金は必要である。老後の3Kという言葉もある。金、家族、健康のことであり、豊かな老後を送るためにもそれなりの資産が必要であることは言うまでもない。
④ 家族
いい家族ほど、心を癒やしてくれる存在はない。60歳半ばで乳がんの手術をした女性がいる。今もスーパーでレジのバイトをしている。いつもニコニコと幸せそうにしている。家族構成を聞くと、娘3人が結婚して孫が7人、ひ孫がすでに7人もいるとのこと。みんな近くに住んでいて、孫やひ孫の守りでテンヤワンヤ。いつも幸せそうなのを納得した。
遠慮なく、笑いあったり、泣きあったり、安心して人の悪口を言いあったりできるのも、家族ならでは。一番の味方になってくれる家族がいてくれるのは心強い。
⑤ ひとりの時間
世間の喧騒から逃れてひとり静かに過ごしたいときもある。雑誌で「男の隠れ家」といった特集記事を目にするとついつい手にとって読んでしまう。静かで落ち着ける空間で、ぼんやりする、過去の思い出に浸る、将来に思いを巡らせる、趣味に没頭する、何でもいい。離れ小島の波打ち際の海の家、カナカナとひぐらしが鳴く山奥の古民家に思いを馳せるが、そこまでいかずとも自分の部屋で静かに物思いに耽るのも、おつなものである。 ⑥ 自分の成長
仕事で成長を自覚できることは励みになる。外科医42年の私にはよく分かる話である。糸結びに始まり、ヘルニア、盲腸の手術はいわば初級。それから、胆石、胃がん、大腸がんへと難易度が上がり、食道がん、膵臓がんの手術ができれば一人前の外科医。道は遠くても腕の上がるのを実感することでモチベーションも上がる。
登山家も同じであろう。裏山から近隣の山々、日本アルプス、富士山を制覇して、海外に挑む。
老いて成長曲線は鈍化したといえども、今も人間として成長したいという気持ちはずっとある。それが紙一枚の成長であっても嬉しいものだ。
⑦ 仕事
打ち込める仕事があるのは素晴らしいことである。それが天職ならいうことなし。天職とは好きなこと、得意なこと、社会の役に立つことの三条件が揃った仕事である。嫌いな仕事でも生きるため家族のため生活のためにしなければならないこともある。
私は医療が大好きで、生まれ変わってももう一度外科医になってもいいくらい手術も好きである。医師という天職を得て、幸せであると思っている。
⑧ 愛する人
愛する者の存在は大切である。愛人とかといった意味ではなく、自分を必要としてくれる人、あるいは自分が支えなければと思う人。そのような人がいることが、心の支えにもなる。孫、子ども、伴侶、親、そして友人でも構わない。自分が愛し支える人の存在は重要である。
⑨ 友人
多くはいらない。まさかの友は真の友というような友人である。闇夜でも蛍光のように輝く友情を持ちあえる友である。決して信頼を裏切らず、時には耳の痛い忠告もしてくれる。誰とでも友達になる必要はない。真の友を一人でも持つことができれば幸せである。

以上、名著「とにかくやってみよう」を参考に、人生に大切なものについて思うことを述べた。
仕事にのめり込むこともあるだろう。恋人にうつつを抜かすこともあるかもしれない。家族との時間を最優先しなければならないときもある。人生の時々で、その太さや大きさは異なっても、このような柱を多く持つことで、人は容易にはくじけなくなる。
どれもが大事。程よくバランスをとって日々を暮すことがいい人生を送ることになると思っている。


医療今昔物語

医療現場から姿を消したモノ
先日神戸で、「三人会」と称する講演会が開催された。医療現場に身を置く者が三人、思い思いのテーマで話をする会である。私は「医療今昔物語」というテーマで、外科医になってから42年間での医療の変遷を中心に話をした。その中から、今回は医療現場から姿を消したモノについてまとめてみた。
◆ナースキャップ
ナースキャップは看護師の代名詞であった。正確にはわからないが、30年ほど前から徐々になくなっていったと思う。看護師の象徴ではあるが、ただそれだけ。何の役にも立たない。不潔。髪の毛が少なくなると固定が困難で、余分な費用もかかる。
当時、私が院長を務めていた腎友会病院(現腎友会クリニック)は小さな病院であったので、看護部からの抵抗も少なく、神戸で一番最初にキャップを廃止した。間もなく、看護学校の戴帽式がローソクに火を灯す宣誓式に変わっていった。
◆灰皿
私が医師になった頃、外来の診察机には普通に灰皿がおいてあった。喫煙する医師は、診察の合間にタバコの煙を吹かしていた。今では考えられない風景であるが、当時は禁煙という概念がなく、どこでもタバコを吸っていた。
その後、喫煙スペースが義務付けられ、建物内禁煙、敷地内禁煙と禁煙エリアが広げられ、喫煙者には肩身の狭い時代となっていった。新幹線もしかり。喫煙車両を設けた時もあったが今は全車禁煙となった。その後、副流煙被害や嫌煙権が認定されるようになり、病院での喫煙者は大幅に減少した。どうしてもやめられない職員は、道路上で携帯灰皿を持って吸っている。
◆洗面器手洗いとタオル
診察室や詰所には、薄めた消毒薬で満たされた洗面器が置いてあり、そこにタオルがかけてあった。消毒薬は古くはクレゾール、その後は無臭のヒビテン。
汚染された手を、洗面器につけて浸しタオルで手を拭くのである。そのうち水は濁り、タオルは湿って汚れてくる。頻回に交換するわけでもなく、何度も繰り返し同じ手洗いとタオルと使っていた。
汚染された手を、汚染された水で洗い、汚染されたタオルで拭くわけで、感染が広がらないわけがない。院内感染という言葉もまだない時代で、感染の媒体が医療従事者であるという意識も希薄であった。
時代は変わり、洗面器に入った消毒液も、タオルも消え、今は流水で手洗い、紙タオルで拭き、乾式消毒薬で手指をこまめに消毒するようになった。
◆壺に入ったアルコール綿
アルコールをちょっと塗るだけで消毒完了といった、アルコール神話がまかり通っていた時代がある。大きなガラスの壺にカット綿を入れ、アルコールをドボドボと流し込んで綿をアルコール浸けにする。浸っている間はいいが、アルコールはすぐ乾燥する。綿が乾くとまたアルコールを追加。いつ作成したのかわからないような消毒綿で消毒をしていた。
そこに細菌が繁殖し、それがもとで院内感染が広まるという事件も発生した。その後、作りおきしたアルコール綿はなくなり、小さなアルコール綿を一回ごとに袋から出して使うようになった。クリープが瓶入りから一回使用の袋入りに変わったようなものである。
◆紙カルテ
患者のカルテが診察机の一角に積まれていた。カルテの山の高さで、医師の人気がわかった。「達筆」すぎて本人も判読できないような字を書く医師も少なくなかった。
英語とドイツ語と日本語の混在した所見は、意味不明。処方箋も手書き、検査オーダーも手書き、カーボン紙からノンカーボン紙に変わって、手が汚れなくなったと喜んだこともあった。診療科ごとにカルテがあるため、他科のカルテを取り寄せるときも手間がかかった。カルテ棚から抜かれたカルテの場所にはアリバイカルテを置き、どこに持っていったかを記録していた。一患者一カルテを実践した病院もあったが、そうなるとカルテは分厚くなり、取扱に苦労した。
当院は平成15年に神戸市で最初に電子カルテを導入した。当初は混乱を極め、入力に苦慮する職員も多数いた。それも今は昔。16年前の記録は即座に閲覧できる。診察の予習復習ができる。医事課がカルテ管理の業務から開放された。誰もが読めるようになった。
今は、大病院では9割、中小の病院では4割近くが電子カルテを導入しており、年々紙カルテが消えていっている。
◆ガラスの注射器
昔、注射器はガラス製であった。採血でも注射でも特に使い分けることはなく、使用後は詰所の流しで、筒の中をゴシゴシ洗い、煮沸消毒をしていた。
時々注射器を落とし破損した。ガラスの破片が飛び散り、大学病院の病棟婦長に「ガラスで怪我をしないように片付けてネ!」と嫌味をいわれたこともある。
百度の熱湯では滅菌とはならないという知識も乏しく、滅菌機械もあまりなかった時代で仕方がないといえばそれまでだが、今から考えると恐ろしいことがまかり通っていた。その後ディスポの注射器が出てきた。コストを考えると滅菌して再利用の方が明らかにコスパはいい。そのために、完全にガラスの注射器がなくなるまでは、結構時間を要した。
◆現像されたフィルム
画像機器のデジタル化に伴い、現像液で現像したフィルムはなくなった。現像液には銀が含まれており、古い現像液が売れる時代でもあった。独特の臭いがあった。乾燥が悪く半乾きのこともあった。フィルムは3年保存が義務付けられており、広いスペースの保管庫が必要であった。 昔のフィルムを必要とするときは、医事課職員が探しに行っていた。地下や屋上にあるカルテ庫に行って探すのは職員にとっては苦痛であった。画像がデジタル化されたことで、フィルム化は不要となり、CDにコピーすれば患者にも紹介先にも手軽に渡せるようになった。
以上、この40年余りで医療現場から姿を消したモノをまとめた。機会があれば、新たに出現したものについても書きたいと思っている。


順逆をこえる

長い長い連休がようやく終わった。退位の礼、即位の礼を目の当たりにできることは国民として本当に幸せなことだと思っているが、10連休にまでする必要はなかったのではないか。バブル華やかなりし頃、「日本人は働きすぎ」という、欧米の口車に乗ったのが悪かった。働かないことがトレンディーとなり、働きすぎは悪いことという社会風潮まで出来た。無職の風来坊に、フリーターという社会的地位を与える羽目になった。「職業は?」と聞かれ、「フリーターです」と堂々と答える若者もいる。働かずに豊かになること、勉強せずに賢くなること、食べながらやせることを求める「オサナイヒト」も多い。政府が音頭取りをして、休め休めというようになった。働き方改革は更に休むことを後押しする。
日本には石油・石炭・ウラン・天然ガス・レアメタルはない。ただといわれた安全も水も今は昔。残るは勤勉・努力・誠実・器用さのみ。これも危ぶまれるようになった。
経済力の低下は著しく、開発力、学力の低下も指摘されている。世界は働いているのに、日本だけは仕事をせずに遊び呆けるわけである。世界と日本の差は開くばかりで、一度弛緩した組織はゴムと同じ、再度緊張を高めるのは容易ではないと思うがいかがか?
そうこうしている間に、護送船団方式で守られていた業界が危機に瀕している。財務省の庇護の下にあった銀行・証券会社、公共事業の恩恵を受けてきたゼネコン、そして医療保険制度に守られてきた医療界である。さしたる努力もなしに何とか経営が成り立つ時代は終わった。
度重なる医療制度改革は護送船団方式の終焉であり、病院も大いなる努力なしでは生き残れない時代となった。患者は自己負担が増し、消費者として厳しい目を持つようになった。患者の厳しい目と医療改革を逆風ととらえるか、順風ととらえるかは病院次第。順風を受け、選ばれる病院になるためのキーワードは「質の高い医療の提供」、「安心・信頼・満足できる医療の提供」。病院職員ならわかるはず。難しくはない。自分や家族が病気になったとき安心してかかりたいと思う病院が質の高い医療を提供し選ばれる病院といえる。
人生は順逆の連続である。順逆をこえるとは、順境にも逆境にも負けない自分を創ること。順境のときも慢心にならず、逆境にもへこたれず、どんなときにでも心が平らかであるようにするために学ぶ必要があると思っている。


事件は現場で起こっているのだ!

神戸市内のある大病院の元院長と話をする機会があった。歴代の院長はほとんどが大学医学部の元教授。それもかなりの大物教授。当然彼らは、医学界だけでなく政界や財界との付き合いも広い。医学界の理事、各種財団の理事、政府審議会の委員、などの要職を歴任しており、そのためどうしても病院を不在にすることが多くなる。病院にいるのはせいぜい週一日程度。これではとても病院管理者は務まらない。
病院は二十数種類の多職種が集まった縦割り社会。警察や消防のような「命令一下」「上意下達」とはほど遠い。おまけに、医師という個人商店の集まりで、組織図に関係なく縦横無尽に動き回り組織をかき乱す。そんな複雑な組織の病院で、現場に足を運ばず、現場の様子を知らない人に病院管理は無理である。
私が話を聞いたその元院長は、その轍を踏まないように、公職を減らし住居を病院近くに移し、病院からできるだけ離れないようにしたという。彼は、不在が多い病院長のことを「オランウータン」と言っていた。言い得て妙である。
こんな話も聞いた。そのような大物に限って、前にいた大学病院と今の病院を比べ、事あるごとに「大学病院では」「私のいた教室では」「大学の手術室では」と、「・・・・では」を連発する。それらの人を、彼は「出羽守」と揶揄していた。「ウマい!!」と座布団3枚を置きたくなった。
三現主義という言葉がある。現場、現物、現実のことである。何事も、現場に行って、現物を見て、現実を把握する必要がある。オランウータンは、現場に顔を出すのは週に1度程度。それでは、現物は確認できず現実の理解は不可能である。当然、発する指示は的外れもいいところ。現実離れした院長方針は現場を混乱させる。おまけに出羽守の態度は鼻持ちならない。オランウータンが出羽守になると、職場は間違いなく反発する。
以前「踊る大捜査線」という映画がヒットした。織田裕二扮する所轄の青島捜査官が、警察庁から来て捜査本部に座りっぱなしで指示をだす警察官僚に対し、「事件は会議室で起こっているのではない、現場で起こっているのだ」と憤りをにじませながら叫んでいるシーンがあった。事件現場も病院現場も同じである。
職員の表情、外来の混み具合、床や壁の汚れ、空調の効き具合、トイレの清掃状況、大きな声を出す患者はいないか、院内に揉め事はないか、などは現場を歩かないとわからない。そして判断して、そこの現状にあわせて改善するのが病院長の役割である。常に、事件は現場で起こることを意識し、オランウータンと出羽守にならないことが、病院長に求められる最低限のことだと改めて認識した。


誇りある仕事としての医療

医学部不正入試、医療崩壊、医療ミス、医療裁判、医師逮捕など、マスコミの論調と国民の医療を見る目は厳しいものがある。期待の裏返しとはいえ、あまりにも心無い批判は、医療従事者の心を冷やし、医療に対するモチベーションの低下をもたらしている。
皆とはいわないが、医療従事者の多くは目的を持って医療の専門職を目指したわけであり、医療への熱い思いを秘めている。
医療の目的は「体を病み心を病んだ人々の、体を癒し心を癒すこと」である。その時々で最善の医療を行うことによって、患者の健康が回復し、命の淵から生還できれば、医療従事者にとってはそれ以上の喜びはない。
医療現場においては、欲得を離れ、時間を惜しまず、ひたすら患者のために尽くすという無私の気持ちで働いている者も多くいる。これこそまさしくアリストテレスのいう「フロネシス 賢慮」であり、フロネシス(真・善・美)を追求する医療は誇りのある仕事といえる。
◆満足について
満足には、体の満足・頭の満足・心の満足がある。
体の満足とは、美味しいものをお腹いっぱい食べた、暖かいお風呂に入って気持ちよかった、などといった、マズローの生理的欲求に準じるものである。
頭の満足とは、自分の願いが叶うことである。一生懸命勉強して晴れて第一志望校に合格した、国家試験に合格して資格をとった、といったものである。
体の満足も、頭の満足も、何らかの形ある成果を受け取ることによって得る満足である。
心の満足とは、何ら代償を求めずに自分の心が満たされる満足である。献血をした日は、一日中なんとなく気持ちがいい。電車やバスでお年寄りに席を譲ったときは、気恥ずかしく面映い。
医療ではこの心の満足が満たされることが多い。手術が上手くいったとき、緊急搬送された患者を救ったときは、人の役に立ったという心の満足に浸る。「お世話になりました」という患者さんの一言で心が満たされる。
医療とは日々の業務の中で、感動や喜びを味わえる誇らしい仕事といえる。
◆人を助ける
世のため人のために活躍してきた人はたくさんいる。その中でも、松下幸之助と小倉昌男は私の最も尊敬する人である。
松下幸之助は松下電気工業(現パナソニック)の創設者で、二股ソケットからはじまり数々の電気製品を世に送り出し、世の中の人を幸せにした。「明るいナショナル、明るいナショナル、みんな家中(うちじゅう)なんでもナショナル」という、私の子ども時代に流行ったコマーシャルソングは今でも覚えている。
クロネコヤマトが出来るまでの小荷物送付の不便さを思い出せば、小倉昌男の功績の偉大さがわかる。スキー宅急便、ゴルフ宅急便、クール宅急便、時間指定にドライバーズダイレクト。顧客のニーズを汲み取り、販路を広げた。一人住まいの女性には、女性ドライバーの指定も可能である。
この二人のように歴史に名を留める人でなくても、医療従事者は日々の仕事を通じて人助けをしているのである。これほど誇らしい仕事はないといえる。
◆自己犠牲
ボランティアという言葉がある。奉仕である。ユダヤ人にとって奉仕とは、お金を差し出すか、命を差し出すことである。それが出来ないときは最も人が嫌がることをするのが真の奉仕とされている。
医療はいわゆる3K(きつい、汚い、危険)である。患者の病状次第で、時間外労働は当たり前。シモの世話もしなければならない。針刺し事故で肝炎に感染することもある。
現に針刺し事故で劇症肝炎を発症し不幸な経過をたどった外科医がいた。私の恩師も、術中に感染した慢性肝炎から、肝硬変・肝臓癌を併発し、教授退任後のゆったりとした余生を送る間もなく他界した。
パンデミックが起これば、医師と看護師は最前線に立たねばならない。救急は時間の猶予がない。病気は待ってくれない。入浴中も就眠中も容赦なくコールが鳴る。
自分の時間を犠牲にすることには慣れても、子どもとの時間を失い、恋人とのひと時を犠牲にするときもある。それが原因のすべてとはいわないが、一因となって、家族を失い、恋人と破局を迎えた友人の医師もいる。
自己犠牲の実情は辛い。しかし悔やむ姿をみせることなく立ち振る舞うところに、医療職の誇りと矜持がある。
◆高い想い
行動の動機には、外発的動機と内発的動機がある。
外発的動機とは「馬ニンジン」である。報酬が上がる、地位が上がる、賞賛されるために働くのである。これはもちろん大切なことで、もとより否定するつもりはない。人は生きるため、家族を養うため、出世のため、欲しいものを買うため、欲望を満たすために一生懸命働く。
その一方で、いい仕事がしたい、技術を磨きたいといった、見返りを求めない動機で行動するときもある。これが内発的動機であり、時に大きな成果を生み、人を成長させる。
「怒りの葡萄」の作者、ジョン・スタインベックは「天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」と言った。
イチローも、カズも、山中伸弥教授も、羽生結弦も、ひたすら好きな仕事に打ち込み、気がついたら山頂に立っていたのだろう。
医療に求められるのは、技術と知識と心である。上限はなく、それぞれの分野で上には上があるのを知り、技術を磨き知識を吸収しようとする気持ちが働く。
医療は好きで仕事に打ち込める職業である。医療従事者には、医療を天職と思い、内発的動機を密かに抱き、患者を救うため、もくもくと医療に打ち込む人達が多いのも事実である。医療の高度化やIT化が進み患者との関係が希薄になってきたといわれる昨今、医療従事者と患者との間に流れる独特の「情」や「氣」を感じることができる豊かな人間性を養うことも大切である。
日頃思っている医療の素晴らしさ、厳しさ、心構えを書いた。そして私は、日々、誇りある仕事に携われる幸せを味わっている。


外科医の楽しみ

~木工にはまりました~
昨年8月にインドネシアでアジア競技大会が開催された。競泳で大活躍し6種目で優勝、MVPに選ばれたのがスーパー高校生 池江璃花子。帰国後、彼女の強さの秘密に迫る番組が放映された。
お母さんが幼児の才能教育の仕事をされていること。彼女の家には天井に作り付けの雲梯(うんてい)があり、2歳からその雲梯で遊んでいたことなどが報じられていた。
「幼児期からの雲梯?これだ!」とひとり合点し、東京にいる娘に電話をした。娘のところには、私の初孫(男児1歳)がいる。池江璃花子の番組内容を伝え、孫に雲梯をさせてはどうかと話をもちかけた。娘も興味を持ち、そんな雲梯がほしいと言いだした。
ネットで雲梯を検索すると屋外の大掛かりな雲梯の紹介はあるが、室内に置けるものはない。はたと困って検索を続けていると、父親が子どものために手作りした室内用の雲梯のサイトを見つけた。

画像と簡単な設計図が載っていた。もともと工作が好きだった私の記憶を呼び覚まし、夏野菜も終わりかけて退屈になっていた心に火がついた。
簡単な図面をひき、必要な木材や金具を決めて、ホームセンターへ行った。園芸では足繁く通っている店であるが、資材コーナーは初めて。ウロウロしながら材料を揃え、木の切断や穴あけをその店の木工員に依頼した。パイプを通す穴は、工具を借りて自分で開けた。電動ノコギリや電動ドリルなど、様々な工具が揃った工作室は魅力的で刺激的であった。
材料を家に持ち帰り、日曜日1日がかりで、手作りの雲梯を完成した。鉄パイプを使い、木材も全部ツーバイフォーを使用したので、出来上がったものは丈夫ではあるが重く、とても東京に運ぶことはできないことがわかった。

この雲梯づくりで一気にやる気が出てきた。そのつもりでネットをみると、木工玩具が目白押し。各種電動ノコギリ、電動ドリルやネジ回し、電動サンダー、トリマー、ノミにハンマーにカンナや水準器、など色々な工具を買い揃えていった。休日は朝6時半の開店を待ちかねてホームセンターの資材館に通い、せっせと材木を買って家に運んだ。
4畳ほどの書斎はたちまち木工室に変わりはて、本棚には木くずが積もるありさま。やりだしたら止まらなくなった。ネットでの作品を参考にして、デザインを考え、大きさを割り出し、ツーバイフォー材の有効な切り方を考える。思いついたアイデアは木工ノートに書き留めた。次々とアイデアが浮かぶので、夜も眠れなくなった。家にある家具の寸法や作り方までが気になる。テーブルの高さ、椅子の高さや奥行き、脚の形状や太さや長さなどを図り記録した。

木工は木くずとの闘いでもある。手動ノコギリなら木くずは床に落ちるが、電動ノコギリなら木くずは空中を漂う。研磨用のサンダー使おうものなら微粒子となって眼に入る。最初そのことがわからず、無防備のまま作業をしていた。
ふと気がつくと、衣服のみならず、頭も顔もメガネも木くずまみれ。鼻に入った木くずが鼻炎を引きおこし、鼻をかむと木くずが混じった鼻汁が出てくる。これではいけないと、帽子にゴーグルとマスクと完全防御体制をとったが後のまつり。鼻炎は慢性になり今も右鼻から油断すると水鼻が滴り落ちる始末。
ホームセンターの木工員のおじさんと仲良くなり、色々な技を教えもらうようになった。
まず作ったのが軽量の雲梯。一作目よりかなり軽量コンパクトであり、何とか東京の孫に送ることができた。
「孫はこれで将来のトップアスリート間違いなし!」と思っていたところ、苦労して作ったその雲梯が、最近は洗濯物干しになっていると聞いて力が抜けた。
次に作ったのが、上下をひっくり返すと、高さが変えられる幼児用の椅子。机や足台にもなるすぐれもの、当院の保育所や子持ちの知人にも作って渡すと喜ばれた。その他、ブランコ、平均台、シーソー、滑り台、車輪付きの子供用自動車、輪投げを作った。ビンテージワックスを塗ったプランター置きや、ラジカセ台を作って病院の一角に設置した。
大型木工が一段落したあと、次の作品候補を探していたところ、クリスマス前にサンタとトナカイの木工置物を目にした。トナカイの角を切るのがちょっと厄介だができないことはない。試しに作ってみると思った以上に可愛い。スマホで撮った写真をみせると、大好評。大小10個ほどつくって、病院やクリニックや保育所において喜ばれた。

「可愛い!上手!」とおだてられ、ますます豚は木に登った。次は何を作ろかと考えていたところ、「合格だるま」にたどり着いた。合格と五角の語呂合わせの「五角ダルマ」。ツーバイフォー材を五角型に切断し、色を塗り、筆ペンでだるまの顔と合格の文字を書く。これも大好評で、受験生を抱えるご近所や病院スタッフに配ってとても感謝された。すでに「ご利益」があり、愛らしい眼を入れたダルマをみせてもらった。
輪投げは簡単にできる。ホームセンターで丸い廃材と太い支柱になる木を買って、支柱に更に枝となる木を取り付ければ短時間で完成。輪はロープを適当な長さに切ってテープでつなぐ。原価数百円で、買えば数千円の輪投げが完成。保育所以外にも、老人ホームや老健施設に届け、お年寄りに楽しんでもらっている。
野菜作り10年、外科医40年、木工5か月。朝は百姓、昼は医者、晩は大工をして、毎日を飽きることなく楽しんでいる。



金鉱を追いかけるな、リーバイスになろう

1850年、ゴールドラッシュに沸くアメリカ西部では、鉱夫が使う丈夫な労働着が求められていました。そこでリーバイ・ストラウスが、テントに用いられる厚手のブラウンキャンパス地で世界初のジーンズを商品化のしたのがジーンズの始まりです。その後、作業着のジーンズが若者にも受け入れられ、タウンファッションとしての地位を確立し数十億本のジーンズを製造販売しました。
一方、ゴールドラッシュに沸いた西部も金の枯渇と共に、ゴーストタウンだけが残っていきました。 REVI’Sは目先の利益にとらわれず、需要をつかみ、いい商品をつくり、安定供給する仕組みを作った、すばらしいビジネスモデルといえます。
値引きや販売合戦など競争の厳しい世界をレッドオーシャン(赤い海)といいます。その反対に、差別化をはかり、抜きん出た存在で競争のない世界をブルーオーシャン(青い海)といいます。独自性をもち、ブルーオーシャンに浮かぶように考えることをブルーオーシャン戦略といいます。REVI’Sは代表的なブルーオーシャン戦略の勝者といえます。
身近な例では、ウインドウズやクロネコヤマトなどがそうでしょう。
1990年代、パソコンの黎明期に各コンピューター会社は、マシンの性能を競っていました。私が最初に購入したコンピューターはPC98でプリンターを合わせると100万円と越える投資でした。その頃に、ビルゲイツがウインドウズ95を発表したのです。マシンの性能を競うのではなく、コンピューターを動かす基本ソフト(OS)を作り、マックを除くすべてのコンピューター会社がそれを取り入れたのです。マイクロソフトは当時で10億台といわれるマシンからOSの費用を徴収することに成功したのです。IBMもDELLもNECもFUJITUもSONYもすべてがコンピューターの基本ソフトにウインドウズを採用しています。そして汎用ソフトとして「オフィス」を開発、これも世界各国で利用されるようになりました。その後、アップルやグーグルといった強敵が現れ、マイクロソフトの牙城を脅かしていますが、10年あまりはまさしく競争のないブルーオーシャンにいたといえます。
故小倉昌男さんも画期的な運送形態を作りました。多くの運送業が、百貨店などの大手顧客に取り入り、値引き合戦で経営に苦しんでいました。そこで、小倉さんは、一般家庭を対象とした小口運輸に目を向けます。クロネコヤマトが戸口から戸口へ運んでくれるようになりました。スキー宅急便、クール宅急便、ゴルフ宅急便、時間指定などつぎつぎとサービスを広げました。今は佐川急便や日本郵便の追随がありますが、少なくともご存命中はブルーオーシャンにいたといえます。
多くの医療機関はレッドオーシャンで競争しています。金鉱を追いかけず、どうすれば、リーバイスやマイクロソフトやクロネコになれるかと日々考えていますが、なかなか簡単には妙案は浮かびません。


ハイパーサーミア治療

8月からハイパーサーミア治療を開始した。がんの温熱療法である。がん細胞は熱に弱いという特性を利用して、高周波を用いて深部の温度を上げることによって、がん組織を壊死させるという仕組みの装置である。十数年前からこの治療は知っていたが、あまり興味を抱かなかった。がん治療の三本柱は、手術・抗がん剤・放射線であり、それ以外は気休めの治療にすぎないとの認識を持っていた。
ところが、私が執刀した乳がん患者で、肺転移をきたした女性が、ハイパーサーミア治療を受けてかれこれ10年小さくもならず大きくもならず、ずっと元気で過ごしているのをみてこの治療に対する見方が変わってきた。 「従来から、がん治療効果はがんが消えてなくなるか、がんが小さくなることが、効果ありとされてきた。小さくならずとも大きくならなければそれも治療効果があるということではないか」と、この度の導入に際して教えを受けた京都府立医大名誉教授の近藤元治先生の話にも得心がいった。
高齢化でお年寄りのがんも多い。標準的な治療をするには体への負担が大きすぎることもある。高齢化社会の医療は、とことん医療からほどほど医療であるという、高橋泰先生(国際医療福祉大学)の言葉もずっと耳に残っていた。
実際私が診察している中で、手術も抗がん剤治療も受けることを避けた患者さんが何人もいた。癌性腹膜炎で何ら治療できないまま旅立った人もいる。ハイパーサーミアの治療効果を知るにつけ、まさしく今の時代にこそ求められる治療方法のひとつであると確信し、導入に踏み切ったわけである。
特に、目立った広報はしなかったが、8月頃から問い合わせの電話が入るようになった。兵庫県内のみならず中四国在住の方からも治療開始日の確認と受診予約が入ってきた。その多くが、すでに治療中だが効果が思わしくないとか、もう治療方法がないと言われたとか、手術や抗癌剤治療以外の治療を希望しているという人たちからであった。
病脳期間が長く、訴えも深刻であることが予想されたので、ひとり1時間の枠をとって初診の受け入れを開始した。ある程度予想はしていたが、思った以上に患者さんとご家族の「生」への思い入れが強いことがわかった。
一人でくる人はまずいない。ご主人か奥さんはもちろん、両親や子供や孫まで一緒のこともある。すでに他院で治療を受けており、自分の病気のことは詳しく理解している人がほとんどで、告知に悩むことはない。ただ深刻な病状であるため「藁にもすがる思い」で来院されているのがわかる。
分厚いノートに治療経過や内容などを克明に書かれ、刺さるような目線で質問をされる奥さんもいる。進行肺がんの40歳の男性は、身重の奥さんと、お母さんが同席された。徐々に大きくなる腫瘍の恐怖を訴えながら、生まれて来る子供のためになんとかもっと生きたいという痛いほどの思いが伝わってきた。東京から夜行バスで朝、神戸に着き、姫路から来る患者である母親と病院で落ち合って受診した家族もいる。
「今かかっている病院では抗がん剤をすすめるだけで、こちらの話をちっとも聞いてくれない」という私にとっても耳の痛い訴えもある。通常の外来枠で、患者や家族の多岐にわたる訴えをじっくり聞く時間がないのはいずこも同じであるとも言えず、ただ患者と家族の不満に耳を傾けるしかない。
このようにハイパーサーミア治療が始まってから、今までにない頻度と密度で、癌に苦しむ人とその家族と接するようになった。
癌の終末期やケアについては先達が多い。ホスピスの草分け的存在の柏木哲夫先生やアルフォンス・デーケン先生の本を読んであらためて死生学を学んだ。遺伝子学で高名な村上和雄先生の「スイッチオンの生き方」は、実践するに値すると思っている。
すがるに値する「藁」になるためには、医療のみならず、食事のこと、生き方のこと、死の哲学、宗教、下世話なことなど、「何でもござれ」で対応する必要がある。傾聴の重要性も再認識した。
誰もが病気と懸命に戦っているのがよく分かる。顔がこわばっている人には、笑いの医学の話をして一日五笑運動を勧めている。五笑とは、朝昼晩と3時のおやつと寝る前に笑うこと。嘘でもいいから大声で笑うことで免疫力が高まるといわれている。ただし、電車の中や人前でこれをすると、怪しまれるので用心するようにというと、こわばった顔が若干ほぐれるのがわかる。
癌の本を読みあさっている人には、村上和雄先生やデーケン先生の本を勧める。宗教の話がでるときは、私自身は真言宗で信心深いこと。何か偉大なものとして神や仏の存在を信じており、墓とお寺の月参りをし、常にお天道さまを意識して生きるようにしていると話をする。
手術も抗がん剤も放射線もハイパーサーミアといった西洋医学、漢方や鍼灸といった東洋医学、免疫療法、サプリ、祈り、どれも試せばいい。ただひとつの忠告として高価な壺は買わないほうがいいと笑いながら伝え、とにかくあきらめず、治療を進めて行きましょうといって、診察を終えるようにしている。
まだ40数名の治療経験しかないが、著効を示したのが3例ある。一人は80女性。再発胃がん。腹膜播種で身動きできないほどの腹水があり来院。ハイパーサーミアが奏功し腹水はほぼなくなり癌腫も小さくなっている。
あとの2例は、いずれも40歳台の男性。進行胃がんで手術不可と診断され、抗がん剤とハイパーサーミアの併用で癌腫が小さくなり、根治手術が可能となった。もうひとりは手術不可の大きな肺がん。抗がん剤・免疫療法・ハイパーサーミアの併用が著効して腫瘍が小さくなり、付添のお母さんが涙を浮かべて喜ばれていたのが印象に残る。
期待通りの結果が出ず、亡くなられた方もいる。先程述べた東京在住の娘さんが、その後わざわざ東京からお礼に来られた。できることはすべてやって母も私も悔いはないといわれ目頭が熱くなった。
外科医になって40年。いろいろな経験はしてきたつもりだが、今あらためて、いわゆる末期がんの患者と家族に数多く接することで、医療の奥深さを学んでいる。


筋トレ、メントレ、脳トレ

筋トレ
筋トレを約3年続けている。こ発端は下手なゴルフ。いつになく体が重かった。後半の途中で歩くのが苦痛になってきた。カートに乗って移動しても、まともにクラブを振れない。ボロボロのスコアでフィニッシュ。這うようにして風呂場に行った。水風呂に30分ほど浸かって少し楽になった。あとで考えるとこれが熱中症であった。体力の衰えを痛感した。その時「自重筋トレ」を知った。ジムに行かず、器具も使わず、家でできる筋トレである。自分の体重をバーベル替わりにする。仰向け、うつ伏せ、横向きで、お腹を浮かして腹筋と背筋を鍛えるのが基本。「体重よりも体型」というキャッチコピーを信じて、2日に1度続けた。2か月で体が引き締まってきた。ちょっと腹筋が割れてきた。疲れにくくなった。基礎代謝が上がったので体重が増えなくなった。辛口の娘にも引き締まったと言われた。久々に会った友人にも若返ったのではと感心された。おだてられた豚は木に登ってひとり悦にいっている。
メントレ(メンタルトレーニング)
「疾風に勁草を知る」は座右の銘である。困難に直面しようとも、容易にくじけない。これが勁草である。私のメントレは天風流である。心を鍛えるためには、積極的精神を持ち、信念を持つことである。悩みを取り去ることである。悩みの多くは、過去を悔やむこと、まだ来ない未来を過度に心配すること、他人のことを気にしすぎることである。「さしあたる事のみぞただ思え、過去は及ばず、未来知られず」と天風はいっている。悲しい、嫌になった、どうしようもない、疲れた、といった不平、不満、泣き言は口にしないことである。本心良心にもとる行動は絶対にしないこと。やましさがあると、それだけで人間は弱くなる。正々堂々、お天道様に顔向けのできる行動を続けると信念が強くなる。「今日一日、怒らず恐れず悲しまず、正直親切愉快に、力と勇気と信念とをもって、自己の人生に対する責務を果たし、恒に平和と愛とを失わざる、立派な人間として生きることを、自分自身の厳かな誓とする」(中村)は一番好きな誓詞である。
脳トレ
思考力を鍛えることである。思考力とはスキル×意欲×体力の積で決まる。スキルは知識と経験がものをいう。常に知識の習得に努める必要がある。素直な気持ちで人の意見に耳を傾けることも大切だ。常にフレッシュな気持ちを持ち続けることは何よりも大事。ウルマンの「年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ」が心に響く。知識の習得は本がいい。色々な経験もさせてくれる。徳川家康とも知り合いになれる。松下幸之助、本田宗一郎といった偉大な経営者に教えを請うことができる。志のある人の本を読むと本当に頑張ろうという気持ちになる。男の矜持に涙することもある。本が主食、おかずは新聞、テレビはデザート、雑誌はサプリと心得、脳トレを行なっている。
昨年、前期高齢者になった。加齢にあがなうべく、日々、筋トレ・メントレ・脳トレに精を出している。


この夏の出来事

この夏は、大阪北部地震、西日本豪雨と水害、頻発する台風、そして命にかかわるほどの猛暑と、自然の驚異にさらされた夏であった。そして、レスリング、アメフト、ボクシング、体操と、アマチュアスポーツ界での不祥事が相次いだ。9月に入りさらに追い打ちをかけるように、北海道で震度7の大地震が発生し、台風21号では、関空をはじめ近畿一円で大きな被害を被った。
冷房が故障したまま放置され、熱中症で5人の入院患者が亡くなるという、信じられないような事件も起こった。エアコンの故障を放置していた病院の管理体制と院長のボケボケ会見にも驚いた。
事件後も、入院患者はそのまま入院しているという。マスコミの取材に対し「何年も病院でお世話になっており、年寄りを今更どこも引き取ってくれない」と答えている家族の姿に、行き場のない寝たきり老人の増加という、高齢化社会のひずみが反映されていた。
ろくな話題しかない中で、スーパーボランティアの尾畠春夫さんの活躍とその所作に心を打たれた。山口県周防大島町で行方不明となった藤本理稀ちゃん(2歳)を捜索開始からわずか30分で発見して「時の人」となった。 大勢で捜索にあたった警察は形無しである。年は78歳。65歳で魚屋をやめその後はボランティア一筋。
ボランティアの心得として「自給自足」をつらぬき、一切饗応に応じない。軽四のワゴン車に食料と衣類を積み込んで、全国を飛び回っている。車中泊に慣れるため家でも板の間に敷いたシュラフで寝るという徹底ぶり。赤手拭のはちまきに作業衣で、日焼けした顔に笑顔が溢れる。
サングラスに白いスーツといういでたちで、ゴッドファーザーのテーマソングとともに登場する自称「男山根」とは、同じ78歳ながら月とスッポン。長きにわたってあのような筋者が仕切っていたボクシング協会には興味津々である。
不祥事に揺れた女子レスリングはアジア大会で金メダルゼロに終わった。日大アメフト問題では、結論が出れば記者会見を開くと大見得を切った理事長は結局頬かむり。日本大学危機管理学部の設立に関わった警察や新聞社のOBの陰の力が働いているのであろう。
あとは、呆れた話を二つ。
ひとつは、富田林警察で起きた凶悪犯の脱走劇。
以前、須磨警察署でリスクマネジメントの講演をしたことがある。武道場で「警察と医療のリスクマネジメント」というタイトルで話をした。
リスクマネジメントの要諦は二つ。予知予防して未然に防ぐというリスクアセスメントと、被害の拡大を最小限に抑えるというダメージコントロールにつきる。リスクを最小限にして、事象とならないことが一番である。それでも発生したときは、素早い初動と的確な処置によって、被害を最小限にすることが求められる。というような話を、医療と警察を比較しながら話をした。
 マスコミ報道からこの事件を振り返ってみるだけでも問題は多々ある。
弁護士との接見が終わったことは誰も知らず、部屋の外にも監視はいなかった。面談室のアクリル製の板が容易に蹴破られたこと、脱走後もしばらく気が付かなかったこと、事件を広報するのが何時間も遅れたこと等、先に述べたリスクアセスメントもダメージコントロールも何もできていなかったことは明らかである。
犯人を患者に置き換えてみるとよく分かる。
状態の悪い患者なら集中治療室で観察するかモニターをつけて常に状態をチェックする。
アクリル板が容易に破れるのは、柵のないストレッチャーに患者を乗せるようなもの。目を離せば患者は転落する。
脱走に気付かないのは、患者の急変に気が付かないようなものである。報告が遅れたのは、自分たちのミスで起こったことをなんとか自分たちで始末しようとしたのであろう。
手術で自分の手におえないことが起こればすぐに助けを呼ばないと患者の生死に関わる。医師と違い、警官はそこにいるだけで抑止力がある。その抑止力を過信した結果の出来事だと思った。
もうひとつの呆れた話は、行政が長年行っていた障害者雇用の水増し問題である。
私は、メンターである中村天風師や鍵山秀三郎師の教えもあって最近はようやく心穏やかになり怒ることは少なくなってきたつもりであったが、この件ではさすがに腹が立った。
民間で2.2%、国の機関は2.5%の障害者雇用が義務付けられている。毎年、障害者手帳で確認し障害部位や障害程度を細かく記載した調書を提出している。基準を満たさなければ1人に付き月額5万円のペナルティーが課せられる。当法人も毎年60万円から100万円までの罰金を納めている。
医療や介護の現場は肉体労働が多く、障害の程度や部位によるが障害者の難しい面がある。
つい最近、関連施設で手に少し障害がある介護士を採用した。人柄は申し分なくそれなりの介護はできるので採用したが、現場にでると利用者が不安を感じるようになった。そのような雰囲気が伝わったためか、結局は退職してしまった。
障害者の雇用に努めてはいるが、毎年1人ほどの不足が続いている状況である。当院と同様、多くの民間企業は雇用にそれなりに努力していると思っている。
ところが、その大もとの各省庁が水増し申告をしていたのである。雇用率2.49%とされていたのが、調査をすると実は1.19%。実に3460人も水増しをしていた事が判明した。
障害者手帳を確認することもなく、目が悪い、足が悪いといった自主申告を元に申請していたのだから恐れ入る。国税庁の1022人を筆頭に、27の機関に及ぶ。その中には、お膝元の厚生労働省、泣く子も黙る会計検査院も入っている。
国がしているなら地方もしているに違いないと思っていたら案の定、全国あちこちの自治体で水増し申請が発覚してきた。
申告ミスした理由は、そんな手続きがあるとは知らなかったとのこと。
「知らなかった」で済むなら警察はいらない。うっかりミスであるはずがなく、明らかな確信犯である。民をばかにするのも程々にしろと言いたい。そもそも省庁の障害者雇用にはチェックもなく、罰則規定もない。「親方日の丸」という言葉を改めて思い出した。
 この夏は天災と人災が寄せては返す波のように次々と発生した「激しい夏」であったと、残暑が厳しい中で夏を振り返って感じている。


ヒーロー

昔から映画好きであった。日曜日の朝一は、たとえ人気映画でも、カップルとカップルの間には隙間の席があり、あつかましいオジサンは必ず座ることができた。
しかし全席予約制が増えたため、隙間席が無くなり足が遠のいていた。
最近、神戸にもシネコンが増え、その多くがネットで予約できるようになったので、日曜日の朝一に足しげく通うようになった。
好みは単純なアクションものである。007、ダイ・ハード、ミッションインポッシブルはすべて観た。最近の話題作もほとんど観ている。
多くの映画にはヒーローが登場する。
ヒロインに危機が訪れると、クラーク・ケントはスーパーマンになった。
古くは、杉作を救うため、嵐勘十郎は鞍間天狗となって白馬にまたがり駆けつけた。
タイタニック号の悲劇は実話である。7回におよぶ警告を無視して氷山にぶつかった。
ヒーローにはなれなかったが、デカプリオはスターになった。
映画が面白いのは、危機管理(リスクマネジメント)ができず、危機が発生し、その危機を救うヒーローが現れるからである。
観客はハラハラドキドキする。はやく何とかならないかと、やきもきする。手に汗を握る。
そこにヒーローが現れ、一件落着となる。
水戸黄門は、長年にわたり毎日夜8時にヒーローとなっていた。
危機管理の要諦は、リスクアセスメントとダメッジコントロールである。
リスクアセスメントとは、リスクを予知予防し未然に防ぐことである。それでもリスクは膨らみ現実のものとなる。その時、被害を最小限に抑えるのがダメッジコントロールである。
リスクアセスメントができず被害が拡大しそうになったところに、ヒーローの出番があり、面白い映画となる。ヒーローはいわば火消し役である。

映画はこれでいい。しかし、医療現場で何度も火の手があがると大事(おおごと)である。
医療での一番の危機は、患者の急変である。
「血圧低下!呼吸停止!止血困難!」。周りが慌てふためいているときに、スーパードクターがさっそうと現れ、的確な処置を施し患者を救う。
医療事故や患者とのトラブルが発生しても、院長や事務長がたちどころに問題解決をする。
職員は安堵して拍手を送る。そのようなヒーローを擁し、彼等の出番が多い病院はドラマの世界だけで十分である。
毎日、「医龍」の朝田龍太郎が活躍するような病院は大変な病院である。
病院は、娯楽、店頭、感染、輸血ミスを未然に防がねばならない。
患者が急変する前に、適切な治療をすること。
患者や家族の声(警報)には耳を傾けること。廊下の水溜りはすぐにふき取ること。
夜道をひとりで歩かないのと同じように、複雑な医療行為は二人で確認すること。
職員ひとりひとりが、決まったことを正確に淡々とこなすことが、リスクを未然に防ぐことにつながり、一番のリスクアセスメントとなる。
ヒーローの出番のない「凡事徹底」に勝るリスクマネジメントはないといえる。


前向きに生きる人たち

「抗癌剤のむかつきは二日酔いに比べたらよほどマシ!」
「痛いのは生きている証拠!」
「髪の毛が抜けるのが嫌で思い切って短く切ったら、それからはあまり抜けなくなった!」
後輩の女性医師の言葉である。
進行した子宮がんで、化学療法と手術を繰り返し受けた。
約1年の闘病生活を送り、ようやく復職できるまで回復した。
発病当初から色々相談にのった経験があり、元気になった報告をしたいと、まっ先に訪ねて来てくれた。 メールをもらった時は、長期にわたる癌との闘病で、やつれているであろうと思い、どのように接したらいいかと、少し悩んでいた。
しかし、目を見張るようなショッキングピンクのコートを羽織り、若干ふくよかになった顔で、颯爽とやってきた彼女をみて、その思いは一気に吹き飛んだ。
食欲は極めて狂盛、仕事もせずに「食っちゃ寝、食っちゃ寝」の生活で、5キロ太ったという。もともと、元気者。仕事大好き、向学心も旺盛で、アメリカに留学経験もある。
美人で明るく親切で、仕事ができる。患者からも看護師からも絶大な人気があった。
「○○から元気をもらった」という言葉はあまり好きでなく、安易な使い方に違和感を持っていた。
実際そんな人にお目にかかったこともなかった。
土曜日の午後、病院近くにある小さなイタリアンレストランで、ランチを食べながら話がはずんだ。
世の中には、癌になっても、こんなに元気で明るい人がいるのだ、ということを知った。
彼女との久しぶりの会話で、健康な私が元気づけられ、「これが人から元気をもらうということか」と初めて実感した。
先日受けたPET検査で、転移はなかったようで、4月からの仕事への復帰を、心待ちにしている様子がありありとうかがえた。
「病は気から」という言葉がある。
彼女をみていると、「まさしくその通り!」いう感じがした。

先日、中村天風の講演集を読んだ。
ご存知の方も多いと思うが天風は昭和の哲人といわれた人である。
政財界で教えを請うた人も多い。作家大佛次郎も心酔し、天風をモデルに「鞍馬天狗」を書いたと言われている。
没後も天風会が啓発活動を続けている。
天風哲学の基本は心身統一法である。
生命とは、見える肉体と見えざる心が結合し、躍動していることがある。
活動のすべての源は心にある。
肉体ばかりに目を奪われ、体を鍛えようとするが、体より心を鍛え丈夫にすることが大切だと説いている。
人にとって重要な6つの力として、体力・胆力・判断力・断行力・精力・能力をあげ、その力もすべて心が源になっている。
感情とは、目に見えない心の摩擦が起こって生じる現象である。
気弱、勇気のなさで、泣いたり恐れたり妬みがわいてくる。
健全な精神が健全な生命を作る。
体を丈夫にするためには、とにかく心を丈夫にすることだと、繰り返し力説している。

心を丈夫にするための方法は次のとおり
・眠りにつく前には、楽しいこと、嬉しいこと、面白いことを考える。
・消極的な言葉を使わない。
・不平不満は言わない。
・心の積極的な人と接する。
・何事にもベストを尽くす。
・内省する。
・人の言葉に左右されない。
・取り越し苦労はしない。
・本心良心に背く行動はしない。
 以上が、私が考える天風哲学のミニミニダイジェストである。

このような、ある意味の精神論を論じても信じない人も多い。
松下幸之助、本田宗一郎、稲盛和夫、小倉昌男、飯田亮、永守重心、鍵山秀三郎といった、いわゆる創業者、名経営者と言われる人たちの多くが、天風と同じようなかとを述べているのは興味深い。
京セラを一代で築き上げ、日本航空を再建した稲盛和夫さんは、多くの本を書いている。
そこで常に説いているのは、正しい考え方とは、前向きで建設的、明るい思いを持ち、肯定的で善意に満ちており、真面目・正直・謙虚で努力家、利己的ではなく、足るを知り、感謝の念を忘れないということである。
ほとんどが一代で大企業を築き上げた方々である。
艱難辛苦は察して余りある。幾度となく経営不振があり、倒産の危険を感じていたという。
極度の不眠症に陥った人もいる。
それでも、強い心を持ち続け、今の地位を築き上げたわけで、そのような人の言葉には、実績に裏打ちされた重みがある。

フローという言葉がある。
フローに浸されると偶然が次々と起こり、出来事が収まるべきところに収まり、障害が消え去る(「パワー・オブ・フロー」チャーリーン・ベリッツ)。
いわゆる、いい流れをつかんだ状態のことで、急いでいる時にずっと青信号が続いたとか、困った時に偶然出会った人が助けてくれたとか、本当にびっくりするような幸運に巡りあった経験は誰もが待っていると思う。
このフローをよく実感する人を、フローマスターという。
フローマスターは、開放的、学び好き、正直、誠実、親指で感謝を忘れず、一緒にいると心豊かになり会話に熱中するような人といわれている。
先に上げた名経営者に、直接お目にかかったことはないが、おそらくこのフローマスターであったのであろう。
何事にも積極的な精神で、誠心誠意取り組んできたことは想像に難くない。

冒頭に紹介した女性医師は、大病を患ったことは不幸ではあるが、それを見事に乗り越え、溢れんばかりのパワーを放散するまでに回復した。
天風哲学の心身統一を果たし、そして、フローマスターを体現している人物といえる。
手帳の裏表紙に貼り付けてある、天風の誓詞「怒らず、恐れず、悲しまず」を眺めながら、いまだに残るそのオーラを感じている。



結婚します

休日の朝、携帯にメールが届いた。
「10月11日に結婚式をします。先生はお忙しいと思うので、早めに連絡しておきます。空けておいて下さいね。日が近づいてきたら、改めて案内状を送りますね」という文面に、絵文字が付いていた。
私は苦手の携帯メールで
「おめでとう。了解しました。喜んで出席させてもらいます。」と返事を送った。

話は20年前にさかのぼる。私は、兵庫県の西にある、地方の公立病院に勤務していた。
当時2歳の少女が、ひとりで遊んでいた時に田んぼの用水路に転落し、浮かんでいるところを近所の人に発見され、瀕死の状態で病院に運ばれてきた。
心肺蘇生が奏功し、一命は取り留めたが、呼吸は微弱で昏睡状態が続いた。地方にはそのような患者を受け入れてくれる病院はなく、院内でチームを組んで治療に取り組んだ。
町長の英断で小児用人工呼吸器も購入された。栄養をつけるために、お腹を切開し小腸に管を入れ、経管栄養を始めた。 元看護婦であったお母さんは、終始ベッドサイドに付き添われていた。
事故から一ヶ月、多くの人の祈りと努力が通じたのか、まさしく奇跡的に少女は意識を回復した。人工呼吸器からも離脱、食事も出来るようになり、歌も歌えるようになった。お腹の小さな傷以外、何ら障害を残さず、元気になった。
私一人の力ではないが、ご両親に深く感謝された。
地方紙に大きく取り上げられ、民放の朝の番組でも放映された。

その後、私は病院を変わったが、少女との文通は続いていた。
幼稚園、小学校、中学校と、暑中見舞い・年賀状は欠かさず届いた。小学校入学時の幼い字は年を追う毎に立派な楷書となり、悪筆の私はワープロで対抗した。
便りには成長を物語る折々の写真も入っていた。彼女を一番可愛がってくれたおじいさんが亡くなられたという悲しい知らせも届いた。

平成7年1月、阪神淡路大震災発生から8日目に、ご両親が大渋滞の中を、何時間もかけて、非常食と水とケーキをもって駆けつけてくださった。嬉しさと懐かしさで涙がこみ上げた。
地震のあと、その復興の記念行事として毎年年末に神戸でルミナリエが開催されるようになった。高校生になった彼女から、ルミナリエ見物に友人と神戸にくるとの手紙がきた。そこで、ルミナリエの夜に会うことにした。
13年ぶりの再開である。友達と一緒の中でも、彼女はすぐに分った。2才の時のクリクリした愛くるしい目はそのままであった。幼女は、日焼け顔にニキビがポツポツみえる、はにかみやの少女になっていた。

洒落たレストランと思わないでもなかったが、食欲旺盛な女子高生と割りきり、病院近くの焼鳥屋で夕食を食べた。久しぶりの再会は、なんとなく照れくさく会話は途切れがちになったが、女子高生の食欲と姦しさに救われた。
陸上と勉学との両立の厳しさを何度も手紙に書いてきていたが、部活に打ち込み、長距離選手として頑張り、県大会にも出るほどの成績を残していた。
彼女の友達が気を利かせて撮ってくれたツーショット写真を、今でも大切にしている。

その後、彼女は高校三年生になり、進学という転機を迎えた。
普通の大学に進むか、看護師になるかを悩んだようだ。彼女のご両親が、幼児期の事故のこと、そして多くの人達のおかげで救われたことを、繰り返し話されていたためか、彼女は看護師の道を選択した。彼女から届く手紙にも、自分が受けた恩に報いたいということも書かれてあった。看護学校に入学し、神戸で一人住まいを始めた。両親と離れて、一人暮らしをするようになってはじめて実家の有難さが分ったようである。
3年間で卒業し、無事国家試験も合格し、看護師として働き始めた。仕事を始めてしばらくは、リアリティーショックに悩んだようである。
人が死ぬこと、自分の技量の未熟さ、複雑な人間関係など、泣き言交じりの手紙がよく来るようになった。その都度、励ましの手紙を返した。

2年ほど経ち、ある日好きな人が出来たと、手紙ではなくメールが来た。
あれから20年あまり、少女が年頃の女性になったことを改めて認識した。
二人を食事に招待することにした。
今度は、焼鳥屋ではなく、洒落たイタリアンレストランである。
どんな「男」かと、想像していた。茶髪でもなく、ピアスも付けず、破れたジーンズもはいていなかった。整った髪型でスーツを着て、背筋を伸ばし、目を見て挨拶が出来る青年であった。市役所に勤めているという。私の口頭試問のような、政治・経済・医療に関わる話にも応じることができた。縦割り行政、税金の無駄遣い、公僕としての意識の低さなど、行政の問題点もしっかり指摘していた。また、若手のリーダーとしての悩みも抱えていた。
「合格」である。好青年と判断した。この時すでに、結婚の約束ができていたようである。そして結婚式への招待状が届いた。彼女と文通が始まった頃から「結婚式への出席」を意識はしていた。長い付き合いであり、遠くで暮らす娘のようなものである。
自分が救った幼女が少女になり、そして看護師になり、今ここで結婚式を迎える美しい女性にまで成長した。感慨はひとしおである。
ほぼ四半世紀にわたり、ひとりの「患者」と関わってきたわけでこれほどの喜びはない。
医者冥利につきる。
医療バッシングが強まり、モチベーションが下がることが多い中で、医師として私の気持ちを下支えしてくれているのは、このような患者とのいい関係と思っている。


最後の晩餐

「ホント美味しい、とろけるようよ。柔らかいお肉ね。嬉しいわ。最後の晩餐ね」
と言って、彼女は小さく切ったヒレ肉を一切れずつ、ゆっくりと口に運んだ。ほんの数切れであったが、美味しそうに食べている。
日曜の昼さがり、書類や雑誌で散らかった院長室で、二人でステーキを味わった。
彼女は、明治生まれの94歳。当院関連の有料老人ホームへ、平成7年の阪神淡路大震災後に入居してきた。 東京で育ち、関東大震災も経験したという。
厳格な陸軍将校の父に反抗し、若くして家を飛び出し、津田塾でフランス語の翻訳家として、80歳まで仕事をしていた。
天涯孤独を自称しており、確かに訪れる人はいなかった。
「スパイのことをフランス語では、エスピオナージっていうのよ。私なんか、戦争中は特高につけられたこともあるのだから」と、話していた。
フランス留学の経験もある。戦時中なら、敵国かぶれの怪しい女性と思われても仕方ない。イブニングドレスを着て、パーティーにもよく出ていたと言う。
ついこの間まで、薄化粧をし、口紅をひき、ネックレスとイヤリングで飾り、つばの広い洒落た帽子をかぶって、さっそうと出歩いていた。
背筋が伸びて細身ですらっとし、ドレスアップした彼女は、 どう見ても90歳を過ぎた老女には見えない。
ひょっとして魔女ではないかという、楽しい噂も流れていた。私も、彼女がホウキにまたがって空を飛ぶ姿を想像したことがある。
「年寄りが野菜ばかり食べていたら、よけい年寄りくさくなっちゃうでしょう。私はね、ステーキとお寿司が好きなの」
「今まで私は病気らしい病気なんてしたことないのよ」
「病気になったときはそのときよ。先生、何もしないで楽にさせてね」
ときおり、健康診断に訪れた時の彼女の口癖であった。
半年前から、食事がすすまなくなり、徐々にやせてきた。老人ホームの友人や職員が、病院の受診をすすめても、「いいの、いいの」と言って、拒んでいた。
しかし、やはり気になったのか、久しぶりに健康診断を受けた。その結果、進化した胃がんが見つかった。すでに狭窄症状も出現していた。彼女に、病気のことをつつみ隠さず説明した。彼女は、淡々とした態度で、笑みを浮かべながら、
「そうだろうと思っていたのよ。よく分かりました。後どれくらい生きられるのかしら」
「何年も、というわけにはいきませんね」
「薬で治らないかしら」
「あまり効く薬はありません」
「最後は痛むかしら」
「多少の痛みは出るでしょうが、その時は麻酔を使いましょう」
「ここまで生きたのだから、もう十分。先生、何もしないで最後は楽に死なせてね」
「わかりました」
始終にこやかに、彼女はリビングウイルを表明した。
とはいっても、内心は穏やかならぬものがあったようだ。病状が進行するにつれ、些細なことでもホームの職員に厳しい叱責をするようになった。
今までの彼女からは考えられないことである。
しばらくすると、副作用の少ない抗がん剤治療を希望してきた。
できるだけ希望に沿うように対応したが、徐々に病状は進行した。
お腹が張り痛がっているとの連絡をうけた。久しぶりに、彼女の部屋を訪れると、待っていたかのように、
「先生、ひどいわね。どうして来てくれなかったのよ」
といつになく、険しい表情で責められた。
「よくがんばりましたね。そんなお腹では苦しいでしょう。病院に入院して、腹水だけでも抜きましょう」と言うと、彼女はあっさりと同意し、入院した。
緊満したお腹に針をさすと、淡血性の腹水が流れ出した。
大量の腹水が抜け、お腹はペシャンコになった。平らになったお腹には、多数の腫瘤が触れ、癌がかなり進行していることが分かった。
病院嫌いの彼女に、退院を勧めたところ、
「ご迷惑でなければ、このまま最期まで入院させておいてちょうだい」と懇願された。
癌の終末を迎える場所として、家とくらべ色々と制約があるが、安心が得られるということで、病院を選択したのであろう。
粥を少量食べるのみで、目に見えて衰弱が進んだ。
病院には、スタミナドリンクや飴やラムネ菓子が置いてあり、私が部屋を訪れるたびに、
「どうぞ召し上がれ」と言って、すすめてくれた。
ある日、
「先生、最期に美味しいステーキが食べたいわね」と冗談半分で言われた。
「家で焼いて持ってきましょうか」とたずねると、
「冷えたステーキなんてだめよ。ステーキは焼きたてでなくっちゃ、美味しくないもの」
「そうですね、なかなか難しいですね」と言いつつも、ある考えが浮かんでいた。
その夜、家で相談、電磁調理器を持っていって焼いてはどうかということになった。
商店街の肉屋で、上等のヒレ肉を買い、日曜日を待った。
病院のどこで焼こうかと迷った。病院では匂いが病棟に広がるので、まずいと判断し、私の部屋で焼くことにした。 彼女に予告はしていなかった。
日曜の昼間に病院に行き、散らかった机の上を片付け、電磁調理器をセットして病棟に電話、院長室に連れてきてもらうように頼んだ。
しばらくして、車椅子に乗って彼女がやってきた。
パジャマの上に花柄の上着を羽織り、やつれを隠すように、ひさしの付いたニットの帽子をやや深めにかぶっていた。
ここにいたっても、女性としてのはじらいを持ち、身だしなみに気を遣っている。さし向かいで、焼きたての小さなヒレ肉にスパイスをかけて一緒に食べた。
これが、彼女にとっては「最期の晩餐」であった。
「先生、人生なんて無で虚ね。何にもなくなっちゃう。虚しいものね。
でも、最期にこんなに美味しいお肉を食べることができて、本当に嬉しい」と言って、両手で私の手を強く握りしめてきた。
肉の煙が目にしみた。
そして、それから3週間後、彼女は94年の波乱に満ちた長い生涯を閉じた。


オレは河原の枯れススキ

「うまいなあ、うまいなあ」と看護婦に手伝ってもらいながら、震える手で缶のままビールを飲み始めた。
憲法記念日の午後、気になる患者がいて病院をのぞいた。
95才。明治生まれの六尺男。ほんの数ヶ月前までは威風堂々たる人であった。
癌が見つかった時は、すでに手遅れであった。
病弱な奥さんの最後を看とり、その後は一人暮らしをしていた。縁あって当院関連の老人ホームに入居することになり、入居前健診で初めて彼に会った。
大きな目、黒くて太い眉に、黒ブチのメガネをかけ、顔は艶やかでしわは少なく、かなりの肺活量がありそうな胸には大胸筋が浮き出ていた。
歯はさすがに入れ歯のようで、話すと少しカチカチと鳴った。耳もよく聞こえ、言語明瞭で声も大きかった。健診の後、これからお世話になりますと握手を求められた彼の手は、私の手よりも一回り大きく指は太くて、久しぶりに力強い握手であった。
老人ホームに入居してからも、元気そのもので自転車に乗って、近所への買い物にも出掛けていた。
ホームの中で一、二の高齢でありながら、容姿態度ともに堂々としている彼は、他の入居者からは一目置かれた存在であったという。
些細ないがみ合いがあっても、彼が意見を述べると、それなりに説得力があるので、入居者のご意見番となっていた。
以前から胆石があったが、特に症状はなく放置していた。肝機能が少し悪くなっているので調べてほしいと、彼が懇意にしている内科医から連絡を受けた。
検査を行ったところ、胆嚢が大きく肥大し、一部は肝臓に食い込み、肝臓にも多数の陰影があった。胆嚢癌と多発性肝転移である。
手術適応はなく。他に有効な治療方法もない。残された余命はわずかである。
身寄りのあまりない彼にどのように話をすべきか迷ったが、まずは身元引受人となっている甥に連絡をとった。
病状のこと、治療方法がないこと、予後について、甥に説明した。
「先生、本当のところ、あとどれくらい生きられますか」と尋ねられた。
「夏までは無理とおもいます。花見ができればいいのでは・・・」と答えたのが師走であった。
是非は別にして、本人には一切病名は伏せることになった。定期的に私の外来を受診するたびに、衰えは隠せなくなった。
体重は減少し、顔にはしわが増え貧血のためか顔色は悪くなっている。足にむくみが出て、腹水のためにお腹は膨らんでいる。決して弱音は吐かず、病気についても一切何も尋ねようとしなかった。
ある日外来で、両手で私の手を握り締めながら、私の目を見据えて、彼は言った。
「起居が困難になってきた。もう長くはないであろう事は自分で分かる。最後はあなたにまかすので、是非お願いしたい」
家人の強い希望で病名は伏せていても、彼は自分の寿命を見定めている。
「分かりました。きちっとします」と彼の手を握り返しながら、私は答えた。
しばらくして、食事も受け付けなく、身動きもできなくなって入院してきた。延命のための積極的な治療は行わず、少しの点滴をするのみであった。
入院後、一気に衰弱が進んだ。大木が枯れるとはまさしくこのことをいうのであろう。
憲法記念日の午後、私が病棟を訪れたとき看護婦が困った顔をしていた。どうしたのかと尋ねると、
「あの患者さんが、ビールを飲みたがっていて困っているのです」
看護婦の言うことはもっともなことで、入院中に酒はご法度である。
部屋を尋ねると、彼は私の手を握り、
「先生・・、ビールが飲みたい。最後にあなたと乾杯したい・・」と頬がこけ乾いた口元から出るかすれ声で懇願された。最後の願いである。
私は病院の近くにある商店街の自動販売機で「キリン一番搾り」を買い、グラスを二つ持って階段を5階まで上がり、彼の病室へ行った。コップを渡し注ごうとすると、
「缶のままがいい。栓開けて・・」と背もたれを立てたベッドに看護師にささえられて座り、缶のまま飲みだした。
こぼしたり、むせたり、白目をむいたり。何度も少しずつゴクリゴクリと飲んでいく。看護師は心配そうに見つめながら、こぼれたビールを拭いている。
「おいしいなあ、おいしいなあ、本当にありがとう」。
大きな手で何度もしっかりと私の手を握り、涙をいっぱい浮かべた目を見開いて礼を言ってから彼は歌い始めた。
「おーれーは河原の枯れススキ、おーなじおまえも枯れススキ、どーせ、二人はこの世では・・」
思わず目頭が熱くなった。
彼の両肩を支えながら看護師も泣いていた。
部屋の日射しにホッと救われる思いであった。
しばらくすると歌声は途切れ、再び安らかな寝息をたてて眠ってしまった。
そして3日後、彼は95年の生涯を閉じた。